2021.08.09

Official Interview 公開‼️✨

Official Interview – Story of Fuga Miura 
INTERVIEW&TEXT:矢島由佳子
 
1996年7月11日、神奈川県にて生まれた三浦風雅。その凛とした名前は、「海外の人でも言いやすい名前にしたい」という父親の想いのもと名づけられた。
3つ上に兄がいた。弟・風雅は、とにかく兄の真似をした。背中を追って幼稚園から中学まではサッカーにのめり込み、中学生の頃には兄が聴いていたコブクロを自分も好きになる。全身に衝撃が走ったのは、“轍”を聴いたとき。イントロのギターのストローク、さらに二人のハーモニーが耳に入ってきて、心を鷲掴みにされた。「自分もやってみたい」「誰かとハモるってどういう感じなんだろう」と考えた三浦は、学生時代を勉強よりも運動とカラオケに情熱を注ぎながら過ごすことになる。
校内では目立ちたがり屋で人をまとめるポジションに手を挙げるタイプ。中学のサッカー部ではキャプテンを務め、学級委員会もやりながら、体育祭のシーズンになると団長の役目を買って出た。高校生の頃はハンドボール部で活動する一方、軽音楽部に所属しギターを弾いていた同じくコブクロ大好きな友人に誘われて、文化祭などでボーカルを務めて脚光を浴びた。
当時、テレビ番組「週刊EXILE」で「VOCAL BATTLE AUDITION」の模様が放送されていた。高校生の三浦はそれを見ながら、自分の歌を大勢の人へ届けることに憧れを持つようになる。しかし、周りに背中を押してくれる人は誰もいない。親も、担任の先生も、彼の夢に反対した。本当の気持ちを抑え込みながら、「どうせ」と自分に言い聞かせる日もあった。
 
「憧れを持ち始めてはいたんですけど、『オーディションとかに参加しても、どうせなあ』みたいに思っていたし、友達とかからも『そんな簡単じゃないよな』みたいに話をされて、『まあそうだよなあ』と思いながら……でも夢が芽生えてきていたんですよね。高校を卒業するとき、僕の心の中では、音楽の専門学校に行ってみたかったんです。そういう話をちょろっと担任の先生にしたんですけど『いやいや、音楽なんて無理だから』って言われて、親に相談しても『いやいやいや』と。なので、しぶしぶ大学に進学しました。そんなタイミングで動画がバズったので、それがきっかけで踏ん切りがついたというか」
 
三浦がいう「動画」とは、高校卒業式の日にたまたま撮れたもの。卒業式が終わったあと、校庭で、自分をボーカルに誘ってくれていたギターを弾く友人と一緒に、Rakeの“100万回の「I love you」”を歌った。単に思い出作りのお遊びだった。その様子を別の友人が、記念に残そうとスマホで撮っていた。その子が普段SNSに日常の写真や動画を上げているのと同じように、この動画をTwitterに載せた。すると、瞬く間に拡散されていった。
 
「まさかこんなに広まっていただけるとは、という感じでした。動画を撮っていた友人が『卒業しました』みたいな感じでパッと上げただけなんです。動画の中には、ただ僕が歌ってるだけじゃなくて、誰かが『ばいばーい』って言ってる声も入ってたり、卒業式が終わったあとにみんながかけあったりするところも入っているんですよ。そういう卒業式直後のリアルな感じと、自分の歌が重なって、『青春だ』『青春を思い出させてくれる』みたいに感じてもらえたんだと思います」
 
「これはチャンスかもしれない。もっと自分の違う歌も聴いてもらいたい。どんな反応をしてもらえるのか見てみたい」
そんな想いを持つようになり、動画がバズったあとすぐに路上に出てみた。動画に多くの人が反応してくれたからと言って、自信があったわけではない。最初はビビって、あえて人が少ない、地元の海老名駅で歌い始めた。
大学に入学してまもない頃、EXPG STUDIOの体験レッスンを受けてみた。どうしても、音楽を学ぶことを諦めきれなかったのだ。
スクールに通うことを決めて、たった数ヶ月で特待生扱いになるまで上り詰めた。そのときも、スクールの教えで堂々と自信満々に振る舞ってはいたものの、内心はただただ「自分の歌をもっとレベルアップさせたいという想いで必死」だった。毎日15時から22、23時頃までスタジオに入り浸って、歌とダンスの特訓に明け暮れた。
バイトもしながら大学とスクールを両立させるにはあまりにも時間が足りず、大学2年を終えたタイミングで、退学届を出すことにした。それは、親に猛反対される中、自分の夢にベットするために自ら腹を括った行為だった。
 
「親にはむちゃくちゃ反対されました。3回くらい話して、親父に殴られたりして(笑)。しまいには、大学の退学届を出してから親に『やめてきました』って言いました。大きい決断をするときに誰かの意見を聞くことは大事だと思っていたんですけど、逆にそれが自分の本当の想いをブレさせちゃう気がして。でもやっぱり、親は気づいていたみたいですね。親も諦めきっていたので(笑)、もう勝手にしろ、みたいな感じでした」
 
EXPG STUDIOで特待生だった三浦は、次の「VOCAL BATTLE AUDITION」で受かることを本気で狙いにいった。「結構いいところまでいくんじゃない?」。周りの仲間ともそう話していた。しかし結果は、一次審査で落選。
当時3人のボーカルトレーナーからレッスンを受けていたが、それぞれから「風雅はここにいないほうがいい」という話をされた。芸能界の様々な事情を覆せるほどの実力がまだ備わっていないことをしかと受け止めた三浦は、大学退学から約1年後、3年3ヶ月間熱心に通ったEXPG STUDIOの退学も決意する。
三浦が突き進んでいた夢へと向かう道は一旦行き止まりとなり、轍さえも見えない道へと舞い戻ってしまった。とにかくできることをやろう。そう思った三浦は、路上ライブを再開することに。HY“366日”や徳永英明“Rainy Blue”などを歌って、なんとか道ゆく人の足を止めようとした。
 
「三浦風雅としてまた一から始めてどこまでやれるかを試したくて、誰も知らない場所で歌い始めました。最初は『誰だよ』みたいな感じで見られて(笑)、一人も止まらない時期があったりして。これが現実だなと思いながら、でももう自分にはひとまず歌い続けるしかないなと思っていましたね」
 
そんな中、2018年1月にワンマンライブを開催することを決めた。抑えた会場はお客さんが100人も入る規模だ。当時三浦風雅のファンの数は片手で数えられる程度。なんとか100人集めるために、日々路上で歌い続けてチケットを売った。
結果、三浦風雅にとって初のワンマンライブは完売。
半年後、「次は200人集めるぞ」と意気込んで目標の数字を倍増させて開催した2ndワンマンライブも、見事200人のお客さんを集めることができた。着実に歩みを進めていた。
しかし、ここでまた行き止まりの壁が目の前に立ちはだかる。「次は300人だ」と開催を決めた2019年1月の3度目のワンマンライブは、中止に追い込まれてしまったのだ。理由は、当時話をしていた事務所とのすれ違い(現在は解決済み)。「今は音楽活動をしないほうがいいよ」といった言葉が降り注がれ、右も左もわからなかった三浦はやむを得ず、ライブ開催日の3週間前に中止を発表。約半年間、音楽活動を休止した。
 
「本当にやばいなと思って、初めて引きこもりみたいになっちゃって。そのときは『あ、もう終わったな』と思いましたね。大学を勝手にやめた身なので親にも相談できないし、手売りでライブのチケットを買ってくれた人たちの顔も蘇ってきて、すっごく申し訳ないことをしちゃったなと。本当に落ち込んで、音楽もやめようと思っていました。でも、SNSをちょこっと開いたときに目に入ったのが、ファンの方たちが、路上ライブのときに撮った動画を広めてくれていることだったんです。僕は何も発信してないし活動もしてないのに、フォロワーが増えていたんですよ。それを見ると、ここでやめるのは無責任すぎるなと。ファンの方々の想いや行動に支えられて、また音楽活動を再開しようと思えました。本当に、それがなかったら再開できてなかったですね」
 
三浦風雅は、音楽の中で自身の人生の物語を歌うだけでなく、ファンを引き連れて歩んでいく気概も歌い上げる。そうした歌が自然と生まれて、さらにそこに説得力が帯びるのは、このときの鮮烈な経験や、ファンの行動が活動を支えてくれる実感を自分の心に刻み込んでいるからだ。
2019年6月に1stアルバム『Miura Fuga -To be Reborn-』をリリースし、翌月には2ndアルバム『Make a Story』をリリース。400人規模のワンマンライブも成功させる形で、三浦は音楽活動を再開させた。
そんなときに舞い込んできたのが、オーディション「ONE in a Billion」への誘いだ。オーディションの応募者は4,000人。頂点に立つのは簡単ではない。しかし、三浦はそこにすべてを賭けた。
1次2次と審査を順調に勝ち上がっていき、視聴者参加型の審査ではまたファンに助けられ、2020年2月に行われた最終のライブ審査にまで出場することができた。そして、グランプリの発表の瞬間。
「三浦風雅!」
自分の名前が呼ばれた。驚きと感動で、思わず言葉が出なかった。客席には、涙を流しているファンの姿があった。
 
「これに受かってメジャーデビューできれば、何も言えずに急に活動休止したのに支えてくれたみんなに少しは恩返しできるかな、みたいな気持ちもあって、『よっしゃ、もうこれしかない』という想いで参加しました。受かったときは、素直に嬉しかったですよね。と同時に、これは本当にファンの人たちがずっと信じてついてきてくれたからこそ勝ち取れたグランプリだったので、そのときもまたファンへの感謝や、独りじゃなかったなということを感じました」
 
しかし、その喜びも一瞬で壊されてしまう。メジャーデビューが白紙になってしまったのだ。しかも、自分の言葉では発表させてもらえない状態で、「三浦風雅 グランプリ辞退」の文字だけが世の中に出ることとなった。このオーディションに誘ってくれた人物を、三浦は信頼しきっていた。「こうも簡単に人を裏切れるのか」――社会の厳しさや冷たさに、三浦は直面する。
 
「そのときも結構くらっちゃいましたね。でももう逆に、ここでまた踏ん切りがついたというか。今までの自分の甘えが全部出たなと思ったんです。何の知識もなくただ単純に夢を見てるだけだったけど、その夢が誰かのせいでなくなる瞬間があるともわかりました。結局誰かが何かをしてくれることなんてないし、自分で責任を取れるようにしなきゃいけない。もうそこからは、自分たちでやるしかないなというふうになりました。しかも応援してくれていたファンのみんなに弁解できないのが悔しかったので、意地でも売れてやろうという想いが強まりましたね」
 
夢へと続く輝かしい道がまた行き止まりとなり、再び轍さえもない道に立たされた三浦。次に取った行動は、個人事務所設立。今年の3月に「株式会社MAKE F ENTERTAINMENT」を設立した。
そして7月には、ポニーキャニオンからのメジャーデビューへという切符を、今度はしっかりと自分の手で掴み取った。「本当に、長かったです。やっとスタートラインに立てた気持ち」と三浦は語る。
メジャーデビュー曲のタイトルは“Start”。これまでも“Start again”“STARTING OVER”といった曲を出してきたが、再度立ち上がって「ここが本当の始まりだ」と高らかに宣言するかのようだ。
<何度も諦めようとしてた でも無理だった 気付いていたんだ わかっていたんだ それが夢というから>
三浦は、“Start”の一番のポイントはこのパートだと語る。「夢」という言葉に、苦しくなるほど向き合い続けてきた三浦だからこそ書けたラインだ。
 
「歌詞を自分で書かせてもらうチャンスをいただけたので、自分なりの今までのことしか書けないなと思いました。何回もやめようとしたけど、結局、一度夢を見てしまうと、ふとした瞬間に頭の中によぎってしまうんですよ。それが本当に『夢』なんだなって。そういう経験を事あるごとにしてきたんですよね。ずっと夢見てた未来と、何度も落ち込んで『音楽をやめよう』と夢を諦めようとした想い、でも夢って諦められないよなって、そんなことを書きたいと思いました」
 
「夢」は、音楽や映画などのエンターテイメント作品においてありきたりなテーマかもしれない。でも、だからこそ、作品に説得力を持たせるには相当な表現力を要する。それがないと、「夢を追い続けよう」と表現しても本当に薄っぺらいメッセージになってしまうからだ。
三浦はまだ25歳という年齢でありながら、何度も夢に向かう純粋な気持ちを壊され、「知識がないと夢は叶えられない」という現実を知っている。夢を叶えるための道がいかに険しくて、どれだけの覚悟が必要かも知っている。
彼の歌が「夢」というテーマを扱いながらも、他の誰にも生み出せないものになって、さらにそこにエネルギーが宿っているのは、彼自身の人生から紡がれているからだろう。
 
「改めて思うことは、どこまで覚悟を持って突き詰めてやれるか。結局何があっても、自分に覚悟さえあればやり続けられると思うので。今の夢は、東京ドームに立つことなんですよ。先は長いと思うんですけど、100人を200人にしてきたように、地道に少しずつ頑張っていくしかないなと思っています。上手くいかないことだらけの世の中ですけど、自分が本当に何もなかった状態から夢を叶えていく姿を見てもらって、覚悟を決めて頑張ればここまでいけるんだ、って思ってもらえたら。誰かのちょっとした光になれたらなと思いながら活動していきたいです」
 
テレビでオーディション番組を見ながら「どうせ」と思っていた少年は、道の途中で何度も挫けながら立ち上がり続け、今は「どうせ」と自分に言い聞かせている誰かの背中を押す立場となった。
夢を見始めた頃は孤独だったが、今は独りじゃない。
YouTubeのコメント欄を見れば、海外リスナーもその名前を呼ぶ。父親が初めて彼に託した想いが、こうして叶えられている。